大阪地方裁判所 昭和40年(わ)5645号 判決 1967年5月31日
主文
被告人を懲役八月に処する。
但し本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は大阪府三島郡三島町大字鳥飼西七〇〇番地所在の鐘渕化学工業株式会社大阪工場技術課長代理として、塩化ビニールその他の研究や同課で使用する各種文献、資料、研究用薬品等の保管などの業務を担当していたところ、昭和三九年三月三一日家業を継ぐため同会社を退職したものであるが、右退社に際し、それまでの研究生活に対する記念、愛着の念や、家業に使う糊の研究に役立てようなどの意図から、右大阪工場技術課に置いてあった、その業務上保管中に係る同会社所有の左記各物件を領得しようと企図し
第一、昭和三九年三月二三日頃、同会社がその主力製品の一である塩化ビニールの製造につき、独自の製法として機密にしていたC・Nと名付けている重合触媒剤とC・Aなるこれが助剤各一にぎり位を、ほしいままに右工場から持ち出し
第二、同月二七日頃、同会社がドナルド・エフ・オズマー博士から多額の金で入手し、秘密資料としていた塩化ビニールの新規製法に関する研究報告書写等を綴った「各種文献ファイル」一冊を、ほしいままに、右工場から持ち出し
もってそれぞれこれを横領したものである。
(証拠の標目)≪省略≫
(弁護人の主張等に対する判断)
判示第一のC・N、C・A両剤は刑法上の「物」にあたらないとの主張について、
被告人が領得した右両剤はその量少なくその製造原価あるいは購入価格においては、いずれも極めて僅かなものにすぎない事実は認められるが、しかし、これら両剤が、その所有者である前示会社の塩化ビニール製造上有している価値、特にその製法の独自性ひいてその機密性との関係において有している価値は極めて大なるものがあるのである(しかも被告人はそのことを知添している)、その意味において、右両剤はその製造原価等の如何及び量の多少にかかわらず一種の大なる主観的価値を有しているのであり法の保護に値すること勿論であるから、右は刑法第二五三条にいう「物」にあたることもとよりであり、従って右主張は採用できない。
判示第二のファイルは被告人の所有であるとの主張について
会社の職員がその身分に基きその職務のために会社から配付を受ける資料文献はもとより、職員自身が、その職務のために、その地位に基ずいて、自ら、若しくは他の職員を使用して、会社の文献、資料用紙、器具機械等を用いて作成した資料、文献の如きも、特別の事情のない限り、その者の個人所有に帰するものではなく、それらはなお会社の所有であると解するのが至当であるところ、本件ファイルはそのようなものの一であることが認められるので右をもって被告人の所有となすことはできない。
被告人の本件犯行は金銭の利得を目的としていたものではないとの主張について、
被告人は現に本件領得物件を多数の同業会社にかなり長期に亘って次々に有償で売り又は売らうとしていること。本件犯行に前後し、且これに関連してひそかに会社で写しとった技術標準書等の写真現像の際既に偽名を用いる等その手法に当初からの計画性を思わせる点があること。売却に当り一連の資料を殊更何回かに分けて代償確保に意を用いた節のあること。途中で代償を増額していること。犯行後に至って売り込みの意図を生じたものであるとして被告人の挙げるその契機原因、理由等に不自然さが感じられること。薬剤についてその主張する糊の研究には使用していないこと。被告人は在職当時被害会社に対し不満を有していたことなどの諸点よりすると、被告人は初めから他の同業会社に対する譲渡とそれによる利得を意図して本件犯行に及んだものとの強い疑念を否定し得ないところであるが、他面被告人が売り込みを始めたのは犯行後約七ヶ月を経過してからであるし、本件犯行当時被告人が金を必要としていた事情もなく、また現に入手した金員は全く費消されていないこと。本件薬剤はそのいう如き糊の研究資料となりうるものであること。被告人が退社したのは会社に対する不満からではなく全く家業の承継にあったなどの事実を併せ考えると、本件犯行の目的をもって、領得物件の譲渡とそれによる利得にあったと断定するには疑問の余地なしとしないので判示のとおり認定するものである。
(法令の適用)
被告人の判示所為は各刑法第二五三条に該当するところ、右は同法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条、第一〇条により犯情の重い判示第二の罪の刑に法定の加重をなした刑期範囲内において処断すべきところ、被告人はその当初の意図は兎もあれ結局これら賍物を他の資料と共に数十万円の値段で同業各社に売り込み二百数十万円の利得をしていること。ために被害会社に大きな不安感を与えていること(弁護人はこれらの点をも情状として斟酌するのは余罪の責任をも課することになり不当である旨主張するも、これらの点を情状として斟酌することは、それらが余罪を構成するかどうかにかかわりなく、相当であることは、他の財産犯において賍物の処分状況、それによる被害者の実害の内容程度等が情状として斟酌されるのが相当であるのと同断である)等よりしてその刑責は決して軽くはないが、反面被告人は深く悔悟しており、入手金の全部を被害会社に提供してその宥恕を得ている事実も認められるので、これらの諸点を綜合勘案のうえ被告人を懲役八月に処し、同法第二五条第一項を適用して本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予することとし、刑事訴訟法第一八一条第一項本文により訴訟費用は全部被告人の負担とする。
よって主文のとおり判決する。
(裁判官 村上幸太郎)